十年間ずっと書類が好きだった。
予算を組むのが好きで法令を起草するのが好きで数字の辻褄を合わせる瞬間が何より好きだった。
婚約者である王太子の代わりに国政の実務を回し続けた十年間を私は後悔していない。
ただし断罪の日に懐から辞表を取り出す準備だけは怠らなかった。
引き継ぎ書類は百二十巻。
それだけの業務をたった一人で担っていたことに王太子も聖女も貴族たちも気づいていなかった。
王宮を去った私が頼ったのは三年間文通だけを続けてきた隣国の宰相補佐官。
顔も知らないその人は書類の余白に関税率の根拠を問うてくるような几帳面な人物で私は勝手に中年の文官だと思い込んでいた。
実際に会った相手は同い年の青年だった。
名前も立場も私の想像とは全く違っていた。
けれど差し出された書類の筆跡を見た瞬間に安堵した。
ああこの字だと。
新しい国で新しい仕事を始めた私の背中にはいつも旧国の影が追いかけてくる。
返還要求。外交圧力。聖女からの手紙。
それでも隣の机でペンを走らせるあの人はインクを黙って用意し上着を黙ってかけ私の名前だけ声を低くして呼ぶ。
決裁印から始まる関係が恋と呼べるものかはまだわからない。
ただ百二十巻の引き継ぎ書類を残して去った女が隣国でどんな百二十一巻目を開くのか。
それは辞表を出した日の私にも想像できなかったことだ。


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