九年間隣にいた妻の名を、夫は離縁状で初めて書いた

著者:月雅

離縁状の末尾に、丁寧な字で自分の名前が書いてあった。

九年間、一度も呼ばれなかった名前。 使用人も、夫も、誰一人として口にしなかったたった四文字の名前を、夫は離縁の書面にだけ、一画ずつ慎重に書いていた。

知っていたのだ。知っていて、九年間、呼ばなかった。

伯爵家を出たナディアの手元に残ったのは、山あいの小さな町にある叔母の織物工房と、三ヶ月分の生活費だけだった。 錆びた織機を直し、糸を選び、布を織る。名前のない布を。

この世界では、織り手が布の端に自分の名前を織り込む慣わしがある。名前の入った布は作品になり、名前のない布はただの商品として安く売られる。ナディアは腕がありながら、自分の名前を織り込むことができない。

町で出会った染料商は、ナディアの布に触れてこう言った。 覚えました、と。

色の話を一切しない、不思議な染料商だった。 布の良し悪しをすべて手触りだけで語り、ナディアの名前だけは正確に覚えた。

一方、ナディアが去った伯爵領からは、不穏な噂が届き始める。 帳簿が見つからない。収穫祭が中止になった。領民が怒っている。

ナディアが声を上げなくても、九年間の不在が答えを出していく。

名前を呼ばれなかった女が、自分の名前で生きる場所を見つけるまでの物語。 その名前を最初に声にした人が、何を隠しているのかはまだ分からない。

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