十年間、誰にも褒められなかった。
子爵夫人イレーネは夫の屋敷を支え続けた。 保存食の仕込み、献立の設計、帳簿の管理。 すべてを一人で担い、すべてを当然だと扱われた。
ある晩、夫が愛人を食卓に連れてきた。 家事くらい誰でもできる、と夫は言った。 イレーネは泣かなかった。 微笑んだまま、離縁を申し出た。
三晩かけて十年分の献立表を書き残した。 月ごとの仕込み、祭事の料理、封蝋の温度。 書けることは全部書いた。 書けないものだけが、自分の中に残った。
塩を三つまみ。 その三つまみは、イレーネの手の大きさでしか量れない。
荒れ果てた実家の農地に帰ると、土は五年分の固さで迎えた。 母が遺したレシピノートと、竈が一つと、鍋が一つ。 それだけを手に、もう一度台所に立つ。
隣領から来た寡黙な農政官は、五年前の領主会議でイレーネの保存食の瓶を見たと言った。 封蝋の仕方を覚えていると言った。 理由は語らなかった。
毎朝、畑に水桶が置かれている。 誰が運んだのか、イレーネはまだ知らない。


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