引き継ぎ資料は三冊。十年分の仕事が、それだけに収まった。
宰相夫人として費やした十年間に、夫から感謝の言葉は一度もなかった。外交文書の翻訳も、夜会の段取りも、領地の帳簿も。すべて当たり前のように消費された。
夫が愛人を正妻にすると告げた夜、ナディアは泣かなかった。離縁届は二週間前に提出済みです、と微笑んだ。引き継ぎ資料の場所を告げ、宰相府を去った。
前世の記憶を持つ彼女は、この結末をとうに知っていた。一度目の人生では、縋って捨てられ、冬の路地で息絶えた。二度目の今回は、七年かけて静かに退路を整えた。
向かった先は、南の港町。小さな貿易商会を開いた彼女のもとに、ひとりの男が現れる。無口で不器用な護衛は、毎朝なぜか好みの茶菓子を届けてくる。
妻を失った宰相府では、誰にも回せない仕事が音を立てて崩れ始めていた。
道端で見つけたという冬の花は、本当にそこに咲いていたのだろうか。


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